欠けたガラスの縁は人を傷つける。欠けてしまったガラスに、いったい何を望めようか。美しく果物を盛って、或いは花を飾っていたいだけだというのに。
彼はルネサンスの彫刻のように整った顔立ちをしていて、ひょろりと細く、部屋の入口で少し頭を屈めなければならないほど背が高かった。初めて会ったときは、確か共有キッチンで料理をしていて、羊肉の塊をドカドカと切りわけていた。彼の仲間と会話をしている時も、黙々と料理を続けていて、彼はシャイボーイだからと説明された。時折、無邪気な子どものような笑顔をみせるのだが、その笑顔を見る度に、胸の奥が微かにズキッとした。
まるで磁石のようにとは良くいったもので、私と彼は一緒に時間を過ごすようになった。パキスタンの小さな村の出身で、無事に考古学の博士号を取得すれば、村で初めての博士になるのだと言っていた。私がインド人と食事をすると嫌がったので、それ以来食事は控えた。当時使っていたフェイスブックのアカウントを消すように言われて、消した。その他も色々と小さなことですぐに怒っては、私を遠ざけた。私はその度にひどく動揺して、何度も謝った。三十分以内に会いに来ないと二度と会わないと言われ、走って会いに行ったこともあった。しかし彼が愛していると言う度に、喜びと悲しみが同時に押し寄せて、この世界に自分は存在してもいいのだと実感できた。生まれて初めて、欠落した自分を愛してくれる人に出会えたのだと感激した。
いつだったか、くたびれた十ルピー札を斜めにちぎって、再会した時は、これでお互いがわかるねと言いながら、その片方をくれた。私たちは結局、その十ルピー札のように重なることはなかった。重なりようもなかったのだ。今で時々、そこに僅かでも愛はあっただろうかと考える。私たちは良き友であったが、それは恋愛と呼べるものですらなかったように思う。幼い二人の人間は、剥き出しの欠けた縁をどうすることもできず、それでもどうにかしようと互いに歩み寄っては傷つけていた。
当時の私は、自尊心があまりに低かった。自分を責めて、痛めつけることに慣れていた。愛されたかった。軽度の拒食と過食を繰り返し、体重が七十キロに近い時期もあった。少しだけ、私の育った家庭の話をしたい。私の母はどんなときも前向きで、希望を持って私たち三人の子どもを育て上げた。ただ、私が子どもながらに必要としていた注目は与えられなかった。中学生の時は、家が貧しく、母に余裕ないからだと思っていた。その後、物質的に貧しいというのは直接の原因ではないことを理解した。両親の父親はどちらも商社務めで、父と母は比較的裕福な家庭に育った。しかし祖父は、母がやりたいことを自由にやることを決して認めず、事あるごとに理不尽に怒鳴りつけていたそうだ。その祖父は、終戦まもない小学生の頃に母を亡くし、船乗りだった曽祖父は、祖父をお寺や親戚の家に預けたため、愛情に飢えた幼少期を経験しなければならなかった。
私の父は悪い人ではなかったが、弱い人であった。子どもが支えを必要とするようなときに限って、抱えきれない不安を、子どもにぶつけていた。兄が京大受験に失敗した日の夜、初めて兄のすすり泣く声をきいた。その横で、父は「だからやめとけっていったやろ!」と怒鳴りつけていた。隣の部屋で布団を頭まで被って息を潜めていた私は、この男を全く理解しなかった。父は父で、この社会の中で、劣等感に苦しんでいたのだ。当然、私がこれらのことを理解するに至ったのは、もう少し後のことである。
吉林の冬は零下二十度を下回るが、暖気といって、市が一斉に供給する暖房のお陰で部屋は温かく、半袖で過ごせるほどであった。彼は、しょっちゅう部屋の出窓に体育座りをしてタバコを吸っていた。肺が真っ黒になるから頼むから控えてほしいと幾度となく言ったが、きいてくれなかった。彼の家系では男が皆、大体四十代で死んでいるから、自分も長生きしないだろうからいいのだと言っていた。彼は幼い時に父をなくしていた。
クリスマスの日、韓国人のクラスメイトのYさんが、私の部屋を尋ねて、コーヒーを淹れてくれた。彼女は、五十手前くらいの歳で、仕事のスキルアップのために中国語を学びに来たとのことだった。二学期目は、一緒に「中級二」のクラスを取っていたのだが、担当の先生が、スーダンから来たふたりの女の子に対してだけ、些か厳しかった。Yさんはそのことを可哀想だと嘆いていた。私はマグカップを抱え、黒く透明な液体を眺めながら、そうだね、と言った。彼女が有り難かった。
二○二五年六月十三日 北京